第1講

〜そもそも「情報」は「財物」か〜
ンピューター犯罪とは、当然のように、電磁気的なデータを悪用することによって行われる。まず、このことを本論の前提としておこう。
「電磁気的なデータ」。コンピューターでは所詮0と1の配列、フロッピーにしても単なる磁気である。
こんなもの、悪用したからってどうなるもんでもない。と明治時代の人は考えた。
しかし、技術の進歩は、これらを産業の中心にまでしてしまった。
巨万の富を産む、とんでもない「財産」の元になってしまったのである。
当然、これらを悪用しようとする輩はでてくる。
財産は守られなければならない。これは人類発生以来のルールである。(社会主義国家だって、「人民の」財産となるだけで、この原則は変わらない)
そこで、財産を守るために、明治時代の法律と裁判官たちはいかにたち向かっているか。そこが、この回のポイントともなる。

窃盗罪・横領罪・詐欺罪といった犯罪は「財産犯」と呼ばれる。
他人の財産が、保護すべき利益(保護法益と呼ばれる)だからである。

[自己の財産であっても、他人が占有(財物を事実上支配しようという意思をもち、占有者がその財物を事実上支配している)場合には、窃盗罪における「他人の財産」となる。(242条)

従って泥棒から勝手に物を取り戻したら、窃盗罪が成立するとするのが基本とされる、というのが判例である。
自己の占有する他人のものをとったら・・・。横領罪。いわゆるネコババである]
ここで、235条は「他人の財物」を窃取したものを罰するとしている。
このとき、「財物」とはなんだろうか。財産犯全体においてこの語の定義が犯罪の成否を左右されることから問題となっている。
ここで、物の定義は民法85条と同様であるとして気体・液体・固体に限るという説もある。
しかし、これではエネルギーの盗用(例えば電気泥棒)は処罰できない。
従って判例は、「財物」を、管理可能なものとしている。これは明治時代の判例であるが、現在も通説とされている。
しかし、これでは債権のようなものまで財物とみなされることになってしまう。
と、いうことで労働力や利益・価値を除いた自然界にある物質性をそなえたものでなければならないとするのが現在主流とされている(物理的管理可能説)。
しかし、これらのいずれの説に立っても、コンピューターが管理する「情報」は、財物としては扱っていない。
物質性も、生の人間が直接管理することも、なにもできない単なる「価値」だからだ。
もっと別の例で書こう。
「盗作」は、刑法上処罰の対象になっていない。盗作されても、民事裁判で争えるだけだ(もちろん特別法で刑事罰は課せるが)。 
作品は、価値あるいは情報であって、それが直接財産というモノとして、保護される訳ではないことを、日本の刑法は規定しているのだ。
では、「情報」を盗用したものが犯罪性を持っている場合、実務ではどのような処理がなされているのだろうか。
基本的には、情報そのものの盗用については「財物」に当たらないので罪に問うことはできないが、情報が形となって現れたもの、つまり紙やファイル・フロッピーディスクは価値の高い「財物」として重い処罰の対象となる。というのが判例の立場である。
例えば、ある会社のために、ライバル会社の研究員が新薬の機密資料を持ち出させ、コピーさせたケースにつき、東京地裁は次のように判断している。
「情報が化体(けたい・・・形となって現れたもの)された媒体の財物性は・・・情報と媒体が合体したもの全体について判断されるべきであり・・・情報の化体した媒体は、こうした(権利者が独占的に利用したり、他人に複製させたりすること・・・筆者注)価値を内蔵しているものといえる」
つまり、情報そのものは財物ではなく媒体と合体することではじめて財物となるとしているのだ。
信用金庫支店長が預金事務センターのコンピューターに記録・保存されている預金残高明細をアウトプットさせたケースについても東京地裁は、被告人が管理する支店備え付けの用紙に印字した書類の窃盗であるとしている。

これらの判例を見ると、このようなことが言えるのではないだろうか。
「情報そのもののみを奪うことは犯罪とはいえない。」
例えば、先の信用金庫支店長のケースで言えば、彼は自分で持ち込んだ用紙で印字していれば罪に問うことはできないということになる。
コンピューター犯罪の絡みでいうともっと具体的になるかもしれない。
つまり、自分のフロッピーやMOを使って情報をコピーする、あるい自分の端末にデータを勝手に取り込む行為は、犯罪とはならない可能性が高いということになる。
(勿論これらの行為に対して民事上の責任を負う可能性があることはいうまでもない)
情報そのものを保護の客体としえない現行法の解釈の矛盾が露呈している。
今後情報の盗用を処罰する規定が、刑法の中にとりこむことが必要であるかもしれない。
ただし、判例の採用する管理可能性説に立てば、フロッピーなどを利用して物理的に管理可能な情報を財物とすることも
不可能ではないともいえる。
立法措置が困難であるならば、「物」の解釈を変更することによって、現行規定で対応することを考える必要に、個々の事例に合わせて迫られることになろう。
しかし、立法による解決より、百年に渡って構築された判例・通説を理論的に変更することの方が、困難である、といえる。
IT革命以前に、情報の保護が必要だ、という当たり前すぎることに、立法府、つまり国会議員は気付いているのだろうか。

(前回書き忘れたかもしれないが、判例の選択・解説については、前田雅英「最新重要判例250(第3版)」に多くを負っている。しかし、私自身前田教授の説に全面的に賛成している訳ではないこともあって、この論考について筆者が全面的に責任を負っていることはいうまでもない。)